本当にすごいことだったんですね。
携わったひと本当にすごいです。
帝政ロシアの領土は広大な為、地政学的に3方面(北極海も入れれば4方面)に艦隊を維持する必要があった。黒海(オデッサ、セバストポリ)、バルト海(リガ、リバウ=現・ラトビア領リエパーヤ)、極東(ウラジオストック、一部は租借地の旅順に分遣)を根拠地(北極海はアルハンゲリスクだが小規模であった)として、ロシアはほぼ同規模の3つの艦隊を保有していた。
日露戦争
1904年、ロシアと日本との軋轢が高まり、2月8日、旅順港に停泊中のロシア軍艦に日本の水雷艇が奇襲攻撃(宣戦布告は10日、但し最後通牒は6日に手交されていた)し日露戦争が始まった。同日の仁川沖海戦、4月13日には戦艦ペトロパブロフスクが触雷して沈没(太平洋艦隊司令長官マカロフ中将も戦死)。更に8月10日の黄海海戦、同月14日の蔚山沖海戦などによって太平洋艦隊はその戦力を失いつつあった。10月、ロシアはバルチック艦隊の主力を第二太平洋艦隊として極東方面に増派することとした。司令長官には侍従武官であったロジェストヴェンスキー少将(航海中に中将に昇進)が任命された。翌年2月さらにバルチック艦隊の残りの艦からさらに第三太平洋艦隊を編成し、極東へ送り出した。この結果、ロシア艦隊には条約により黒海の外に出撃できない黒海艦隊しか残らなかった。
バルチック艦隊は北海ではイギリスの漁船団を日本艦隊の待ち伏せと誤認して攻撃するというドッガーバンク事件を起こしイギリスと戦争寸前まで行った。スエズ運河は日本の同盟国であるイギリスが支配していたこと、軍艦の大きさ(大型艦の一部はスエズ運河の通行が出来ない)などの理由から、第二太平洋艦隊の主力はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、軽快な部隊はスエズ運河経由に別れ、両部隊はマダガスカル島のノシべ港で合流した。日本やその同盟国のイギリスの抗議によって航路上の中立国の港での補給や修理は困難であり、半年間の航海は困難を極めた。しかし、平均5?7ノットという低速ながらも、本来遠洋航海向けでない駆逐艦など小艦艇を引き連れての航海は「奇跡の航海」として、その後も高く評価されている。第2・第3太平洋艦隊は翌1905年、ロシアの同盟国仏領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾で合流しウラジオストクを目指したが、5月27日、対馬沖で東郷平八郎率いる日本の連合艦隊と遭遇、海戦(日本海海戦 - 日本以外では対馬海戦と呼ばれる)を繰り広げた。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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